私の角度

屋久島とメヒコを拠点に、世界を旅するアーティスト✨

なぜ私が自分の事をサイキックだとハッキリ言うのか

私の母方の家系は女系で

バリバリのイタコ家系

祖母は近所の方が亡くなると

自分の枕に血がポツポツと付くので

(普通の方には見えない)

あー又誰か亡くなった😮‍💨

と言っていました。

 

幼い頃私と祖母が添い寝していると

私にもその血🩸が見えました。

私が先に、枕に血がついている

と言うと、祖母が

おまえにも見えるのかい?

と、困った顔で言ったのを

今でも鮮明に覚えているし

次の朝祖母が母に、

あの子に強く出たようだけど、

そんな物は無い!

と言いなさい!

と言って居るのを私は

隣の部屋で聞いていました。

 

祖母の夢見に

亡くなった方が来て

あれは、自殺何かじゃなく事故だと遺族に伝えて欲しい。

と言われて、それを伝え無ければならない、、、😮‍💨などよく言っていました。

 

母の学校の先生の奥さんが

亡くなった時も

何でそんな一回しか会った事のない

昔の知り合いまで

出てきて私に口添えさせるのか❗️

と、半ば怒っていました。

 

私の専門は人の覚醒のお手伝いであり

死者とお話しするのは

私の専門では有りませんが、、、

私にもその能力に似たものがあり

近しい人が亡くなると

その方を彼方の世界まで

付き添いしたり

やはり不思議な亡くなり方をした方が夢見に来て

あれは自殺じゃなく事故だと伝えて欲しいなど、依頼される事があります。

(この様なご依頼は死者の方からのご依頼のみ受けています。受けざるを得ない😅)

この様な能力は昔も今も

とかく気持ち悪がられるので

祖母は私にそんな思いをさせたくなかったのだと思いますが、、、

 

この様な力は

どんなに無視し続けても

40歳過ぎるともう隠せないくらい

強くなるし、抑えているつもりでも

はみ出てきます。

 

それは、人様の為に使って行く事になります。

 

一貫してそんな変な物は

この世に無い!と言っていた

母や2人の叔母たちも

ヒイお婆さんのお葬式中

引き付けを起こし泡を吹いて倒れた

おじさんを抱き抱えながら

皆んな空中の一緒の場所を

睨みながら

おばあちゃん引っ張らないで!

と叫んでいたので

強弱はあるにせよ

サイキックだったのは明らかでした。

 

父方の方は

神も仏も信じない人でしたが

父は父で地震が来る数分前に

地震の音が聞こえるタイプで

子供の頃は私達妹弟も当たり前の様に

地震が来る前に

その音が聞こえて

今から地震がくる〜

などといい当てていました。

 

父も不思議な事が

(亡くなった仕事関係の人にどうしても聞きたかったことが、突然書斎のカーテンからメモ書きとして出て来たり)

沢山起きる人ですが

母方とは違い完全に自分用のサイキックでした。

どうしてそれが起きるのかと言う事には全く興味がなく

皆んなこれくらいあるだろ!

で、片付けてしまう人でした。

 

そんなこんなで

私ももれなくイタコババアなのです。

 

今は令和

大正時代とは

違う筈なのに、

今だに特に近しい人に

馬鹿にされたり

おちょくられる事があります。

 

それは、私にとってとても辛い経験です。

 

何故イタコの人が人を避けるのか

はたまた、無茶苦茶怖くなって

しまうのか?

私にはわかる様な気がします。

 

私達サイキックも様々

得意分野というものがあり

 

サイキックだったら

分かるっしょー

当ててみろ!

などと興味ない下世話なネタを

振られるのはとても辛い事。

 

それから、ももちゃんに会うと見透かされるから怖いなどと言われる事も

多々ありますが、

サイキックのチャネリング

時間を超えた霊視になるので

集中力が必要で

かなり体力を使います。

通常は完全にオフになっています。

普通のおばちゃんですご安心下さい。

 

 

 

 

 

 

お岩さんからの伝言


ひと月前ぐらいだったと思うが

 

SNSに上がる日本の桜の風景を見ていたら

 

突然、東京の長命寺の桜餅のことを思い出した。

 

子供の時から大好物で

他のところで買うより本店(お寺)が好きでよく連れて行ってもらった

 

お寺はとても小さくて周りをぐるぐると高速道路に囲まれていて

全然いい環境じゃないんだけれど、私はヤケに長命寺に行きたがった

そんな事を鮮明に思い出していたら。。。

 

どこからともなく、長命寺の桜餅の甘しょっぱい香りがふんわりしてきて🌸

唾液の中にその味がした。

 

 

その夜のことである

寝入りばなに突然

また、あの桜餅の香りがしてきて

番長皿屋敷で かの有名な、お岩さんがいらした。

 

 

おいわさんの話によると。。。

 

生前とんでもない目にあって殺されたのに

なんで私が、その後代々怖いおばけとして語り継がれるのか?

 

そこが無念で仕方ない!💢

 

とのこと、

私も、ほんとそう思うよ!

ほんとだよねー!

 

と言うことで、意気投合^^

 

と言うことで、皆さんにも是非伝えて欲しいとの伝言でしたので。

遅くなりましたが、(書いていんだか迷って)こちらに記しました^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私と龍のお話


私が初めて龍に会ったのは

 

今から9年前

 

場所は屋久島の家の庭の一番高いところ

 

 

それまでも、龍の気配は感じた事があったものの

 

あんなにハッキリ龍とあって対話したのは

 

その時が初めて

 

 

呼んだ訳でもないのに突然

近くの龍神の滝壺から現れて

道路を通って家に来た

 

家の裏に大きくそびえるモッチョム岳(通称母さん)と白龍(だいぶお爺さん)と

三人で対話した

 

私達日本人が龍蛇族の末裔だと言うことは、その時母さんから教わった

 

その時話した事の詳細は言えないけれど(言ってはいけない

 

決めた事が一つある

 

私は、自己不信と言う深い眠りについている

 

龍蛇族の末裔を起こし続ける✨

 

 

1990年代後半 シンガポールのプラナカン文化


私がシンガポールに住んでいたのはかれこれ

25年以上前になる

 

その当時 

私にはプラナカンの親戚がいた

 

プラナカンというのは

マレーシアンチャイニーズのことで独特の文化を持つ人たち✨

 

私は彼らのミックスカルチャーな文化をとても気に入っていた

 

あの当時住んでいたエリヤは、プラナカンが多く

 

独特の空気感があった

 

家の近所にあったお気に入りのプラナカンの店

 

様々な中国菓子をガラスケース越しに注文してから

 

コンデンスミルク入りのコーヒーかティーを頼む

 

店には

天窓があり、近くにカナリアの入ったカゴが吊るされていて

 

蓄音機から夜来香がかすかに流れていた♪

 

プラナカンスタイルの薔薇のタイルの床がとても可愛らしかったっけ

 

 

 

1990年代後半のシンガポールは優雅でゆったりしていました^^

 


これから、ますます軽くデジタルになっていく社会を楽しみに思う反面

 

アナログの時代の優雅さを懐かしむ

 

メキシコの午後のひととき^^

自分の好きを貫こう!

何年か前に

 

アングラ世界にとても詳しい友達ができて

 

SMクラブに取材に行った

 

 

一通りのショーを見た後

ショーに出ていた女の子の何人かと話せる時間があり

 

インタビューをさせてもらった

 

その中の一人の女の子が

とても興味深いことをシェアーしてくれました。

 

 

 

 

 

その彼女は

物心ついた時には

生き物を殺していた。と言う

 

そこに、究極の美とエクスタシーを強く感じていたけれど

もちろん、身の回りに共感者はいなく

心の奥の奥にしまって

もしかすると自分にも隠していました。

 

彼女がOLさんになったある日

上司が、そのSMクラブに彼女を連れて行ってくれたそうです。

 

 

初め彼女は、全く興味がなく

仕方なくついて行ったらしいのですが

 

 

そのクラブを出る時には

会社を辞めてここで何も隠すことなく生き生き働きたい

私の隠して来たことを、求めてる人がいる💖

 

となって、すぐにそのクラブに転職し

今ではそのクラブの花形スターになりました💖

 

究極な例のシェアーですが

 

本を書きたい→ 私の文章なんて誰が読みたいの?。。。

 

歌歌いたい→ 私の歌なんて何の価値もない。。。。

 

 etc...

 

事柄は何であれ

何でも同じ!

 

私が、言いたいことは

 

自分の好きが何であったとしても

恥じることはない✨

 

あなたがそれを好きで、やりたいと思うなら

宇宙は必ず需要と供給で成り立つ

 

必ずそれを求めてる人がいます^^

 

今の時代

3次元でウロウロしなくても

NETで簡単に仲間が見つかります。

 

多様性の時代

 

他の大好きを許すことで、自分への許可が大きくなります^^

 

 

 

 

 

 

モモは変わった子供


私は、幼少時代からとても変わっていた

 

今も変わっている。とは自覚しているものの

 

幼稚園の頃の

 

誰の目も1mmも気にすることがない時代の私は

 

自分で言うのも何だけど、

 

とてつもなく変わっていた^^

 

 

どんな風に?

 

まず、幼稚園に行くことに決めたのは

 

中庭に大きな大きな鳥籠の形をした鶏小屋があり、

その中には大きな木が何本か植えられていた

鶏小屋にはインコや孔雀など何種類もの鳥たちがいて

 

私は、その鶏小屋が気に入って幼稚園に行くことを決めた。

 

 

 

なぜか初日から私は鶏小屋の中で園長先生が鳥の世話をするのを手伝っていた。

 

 

次の日も次の日も私は鶏小屋にいた。

 

ほとんど、鶏小屋にしかいなかった。

 

 

 

何度か、担任の先生が呼びに来る

 

私は、大丈夫です!とかいって絶対教室にはいかなかった

 

 

一度教室を見にいったら、みんながカエルの歌を

 

振り付け付きで歌っているのを窓越しに見て。

 

 

急いで先生に

 

私は、ああゆうのは絶対にしません!

 

とはっきり言ったら、

 

意外とあっさり

私は、何も期待され無くなった。

 

 

私の毎日の幼稚園のローテーは、もれなく

みんなとは全く違うものになっていった。

 

朝、幼稚園に到着、朝礼の挨拶後

プールの時以外はみんなと別行動。

 

即鳥籠へ向かう!

ある程度満足したら、お昼の時間がやってくる前に何としてでも帰る!

 

なぜなら、お昼は

赤いプラスチックに入った世にも不味いお弁当が出るのだ!

幼稚園が外注しているそのお弁当はプラスチックの匂いがしてみんな大嫌いだった。

 

しかし、先生たちは残さず食べないと

何時までもネチネチとその子のお弁当の時間を終わらせずに

その子が泣いても怒って食べさせた。

 

そんなことをなぜするのか?

私は何度か先生に尋ねたが、

しっくりくる答えなど返ってこなかった。

 

私ももちろんプラスチック弁当を完食できるわけがなく

でも、あんな見せしめのような拷問に合うわけにもいかず。

 

お弁当前になると、

家の近所のガススタンドが幼稚園に給油に来た時や、

先生用の昼の出前を配達に来た人などに

交渉して、家まで乗せてもらって勝手に帰っていた。

 

そのどちらのチャンスもこない時は、

いただきますから3分もたたないうちに

机からお弁当を落下させて。断固食べるのを拒否した。

 

何時も嗚咽をしながら

怒られなながら

恐怖のお弁当時間を過ごしていた子供たちが

おかずを、落下するようになって。

 

先生はさらに激怒していたが

 

おかず落下


によってかなりの子供が助かったと思う^^

 

 

ももちゃんは扱いにくい子レッテルはその時からだ^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モモの旅行記 短編集 シンガポール編


今日は2023年3月8日

 

現在私は、メキシコのチアパス州サンクリストバルでこれを書いている。

 

 

 

まず、

 

私の初めての海外旅行は

 

1980年のシンガポールだった

 

その頃の私はまだ6歳で、親の仕事についてシンガポールへ行った

 

初めて日本以外の土地に降り立った時の、飛行機から降りる一歩目を

 

40年以上経った今でも、鮮明に覚えている。

 

 

1980年のシンガポールは今のラオスぐらいの感じで

 

緑が多くゆったりとした南国の風が吹く雰囲気が漂っていた

 

その頃のラッフルズホテルは平家で広い庭があってゆったりしていて

 

子供を預けるにはもってこいだったと思う。

 

 

 

 

 

私は当初から、怖いよりも恥ずかしいよりも 

 

好奇心には勝てないタイプで

 

仕事に出かけた親を待っている間、

 

もちろん部屋から出て

 

ホテルを隅々まで探検した。

 

 

 

白い廊下にライオンの足跡がついていて

 

それを辿っていくとホテル内のお土産街に導かれ

 

その中のアンティークショップのお面達をず〜っと見ていたのを覚えている。

 

 

 

部屋に帰る前に、親からもらったシンガポール$をホテル内の売店で使ってみたら

 

シールを買ったお釣りが、飴で帰ってきたのには、子供ながら芯底驚いた!

 

 

子供だからそんなことするのかと思ったら、

 

次のお客さんもお釣りに飴を渡されていた

 

よく見てると、レジの一番右にぎっしり飴が入っていた。

 

 

 

 

そう言えば、その時アンティークショップで買ってもらった

 

真顔のコアラのぬいぐるみを、

 

私はすごく気に入って、大人になっても一緒にいたのに

 

何時の間にかはぐれてしまっていた。。。

 

 

 

 

 

それから、12年後

私はシンガポールに留学して

 

一年半後には、だいぶ年上のイスラム教徒の人と最初の結婚をし

 

私は20歳少し前にイスラム教になった。

 

 

小学校から12年間 手にお数珠をかけ

般若心境をあげていた仏教系の学校を出てすぐだったので

 

イスラム教やコーランはとても新鮮だった。

 

 

その頃には、お釣りの端数を飴で返される事にもすっかり慣れていた。

 

 

そして

その時の若い私は

結婚式は、もちろんラッフルズホテルで💖

って、ド派手に開催したな〜。

 

結婚相手がプラナカンというまた特殊な家系で

 

親戚の中に、イスラム教徒、仏教徒ヒンドゥー教徒がいて

 

結婚式の食事に

豚だめ、牛だめ、肉だめなどの規制がかかりまくり

 

みんながハッピーに考慮するのが大変だった。。。

結婚コーディネーターなどいない時代で

何から何まで自分で決めて、調理場にまで顔を出し

あれこれ、シェフと相談した。

 

かける音楽の順番、タイミング

 

何から何まで自分で全部企画した

 

思い出せば、あれが人生初のイベント^^

 

楽しすぎて、結婚式終わってからプチ鬱になるくらいだった。

 

 

 

結婚式の祝い方は、どの宗教も大体同じだけど

 

 

 

お葬式の仕方は、というと

各宗教によって全く違う。

 

 

 

中国仏教系のお葬式は

 

少なくとも三日三晩麻雀をする

長いお葬式だと1週間くらい麻雀をする。

 

お酒も食事もどんどん振る舞われ、私も身内側だったので必死にお手伝いする

 

24時間休むことなく

10卓以上麻雀の台が出て、来る人が多くて足りなければ

麻雀台も次々継ぎ足される

 

まさに、どんちゃん騒ぎ

 

その会場の真ん中には竹籤と紙で作った

 

ベンツやお金や豪邸を形取ったお供えを、

 

うず高く積んだものが設けられ

 

出棺の際それに火を付ける。

 

泣き女が甲高い声で泣き喚く。

 

 

お供えに着火したら、

 

みんなが突然一斉にくるっと会場に背中を向け

 

挨拶も交わさず、わらわらと家に帰っていく

 

けっして家に帰るまでは、後ろを振り向いてはいけない。

 

 

背後にゴウゴウと焚き火の気配を感じ

 

泣き女のけたたましい泣き声に押し出されるように、皆会場を後にする。

 

何日もにわたる、どんちゃん騒ぎの末

 

何ともシュールな感じで終わるお葬式だった。

 

 

 

イスラム教のお葬式は、

24時間以内に土葬にするので

亡くなってから、同性の親戚が亡骸を洗い 

全身に包帯を巻き と、

とても忙しい。

 

遺体は土葬でそのまま埋葬され、

コーランを読み

頭と足の位置にそんなに大きくない石を一つずつ置いて

おしまい。

 

とてもあっさりしたお葬式だった。

 

 

 

結局その結婚は5年ぐらいだった気がする?!

 

十九の私はイスラム教がどんなものか全く知らず、先入観さえなかった。

 

シンガポールイスラム教はあの時代 世界で最も緩かったと思う。

今もかな?

 

それでも、豚肉を食べることはしなかった  かな?

 

ラマダン(昼間の断食)もイスラムの皆はきちんと過ごしていた。

 

親戚での集まりには、私も頭から爪先までバジュクロンを着た。

 

一度、イスラムの親戚でセントーサ島に行った時

 

みんな被り物をつけたまま船から海に入るので、

 

私も真似してドボンと飛び込んだら

 

布が顔に張り付き、危うく死にそうになった 事もあった。。。。。

 

 

 

私がイスラム教で一番好きな習慣は 挨拶。

 

目上の女性には、手の甲にキスをしてから頬にキスをする

 

何とも優雅で、美しい習慣だった。

 

 

 

私が結婚したての頃のシンガポール

 

,まだオーチャードrdに高島屋すらない時で

 

あそこに何かを建てると、必ずものすごい不幸が起きて家ごと潰れる

 

と言い伝えられて広い空き地になっていた

 

そんなところに、日本からやって来た高島屋が君臨した時は

 

みんな日本人は怖くないのか?と本気で驚いていたし

 

建物を建てる前に、おもすごいお祓いが行われたとも噂になっていた。

 

 

 

高島屋ができるまでは

 

ラッキープラザという雑居ビルに、シンガポールの最先端が全て集まっていた。

 

そこに、ファイヤーというシンガポールで唯一のディスコがあり

 

開店の21時には、

天井のドラゴンが、何も見えなくなるほどの煙を吐きながら

上を飛んでいくというド派手なスタートが私はとても気に入っていた^^

 

宗教とは関係なく

お酒を全く飲めない私は、毎日踊るために部活のように通っていた。

 

その後、最終的に26歳あたりでシンガポールを出てから

 

私はまだシンガポールを1度も訪れていない。